さいきんとか
たまには書いてみる。
3月から、いろいろありすぎて、
熱で倒れたり、金属探知機に怒ったり、ライブに出たり、
疲れています。
どっと疲れたので、熱が出て倒れたのだけれど。
短歌も考えたりしていました。
今は人にはみせられん。
あ、そうそう。大きな大きな恋が、たぶん人生最大の恋が、ひとつ終わりました。
でも、新しい恋が、動き出しています。
すごく濃い4ヶ月でした。
たまには書いてみる。
3月から、いろいろありすぎて、
熱で倒れたり、金属探知機に怒ったり、ライブに出たり、
疲れています。
どっと疲れたので、熱が出て倒れたのだけれど。
短歌も考えたりしていました。
今は人にはみせられん。
あ、そうそう。大きな大きな恋が、たぶん人生最大の恋が、ひとつ終わりました。
でも、新しい恋が、動き出しています。
すごく濃い4ヶ月でした。
mixiからの転記
精神的な成長の過程って、誰でも同じだなぁと思う。
速度は人それぞれ違うと思うけれど、ある経験を通って、次の思考に移るというか、誰でも一回は自分以外の人が頭悪いとしか思えないっていう状態を経て、いろんなことに打ちのめされて気づく、みたいな。
わたしには幸いなことに、本当に幸いなことに、精神的に成長していたり、教養のある知的(精神的に大人なことと教養があることは≠だと思うけど)な友人がとても多い。
まぶしいくらいに、みんなキラキラしていて、そのキラキラにちょっとでも近づきたいなーと思って、頑張って後ろをおっかけているような感じです。
三輪明宏さんはたぶん、自分を磨くための努力を惜しまず、豊かな教養と、精神的な自立を兼ね備えた人が、魅力的で愛される人だって言いたいのだと思う。そして三輪さん自身がそういう人なんだと思う。そういう三輪さんから出てくる、そういう言葉たち(努力を惜しまず、とか)を読んでいて、身近なキラキラしている友人たちを思いださずにはいられなかったのでした。
みんな、人をひきつけて離さない何かを持ってる。うらやましいくらい、キラキラしてる。
きっと、「みんなキラキラしてていいなーと指をくわえているわたし」を、「キラキラしてていいなーと指をくわえて見ている人」もどこかにはいるかもしれなくて、上を見ればきりがないし、下を見てもきりがないのだけれど、わたしは、わたしを楽しく生きられれば、もうそれでいいなと思うんです。
友人は少なくないので、いろんな人を知っています。80歳近い人から0歳児まで、驚くのも馬鹿らしいくらい所得の多い人から毎日どうやって生きてるのか心配になる人まで。
でも、どの友人もキラキラしてて、いいなーと思う。
わたしはなんというか、人の持ってる人間くささがけっこう好きで、嫉妬心とか猜疑心とか、そういうなんかどろどろした気持ちを持ってることこそが人間の魅力だと思う。
自分を磨くことは大切だし、愛される分だけ愛し返すとかはもっともっと大切だと思うけれど、わたしは、もうちょっとそこに、人間くささを加えて、楽しく生きていたいなあ。
と、自分に甘いので思ってしまったのでした。
愛の話 幸福の話
著者 三輪明宏
出版 株式会社 集英社
定価 1,500円+tax
mixiからの転記(少し加筆しました)
茂木健一郎も江村哲二も、ヨーロッパに憧れているんだろうなぁ。日本もヨーロッパのようになればいいのにと、願ってるんだろうな。
と、思いながら読んでしまった。
読んでて考えることは多くて、ああとかううとか思う。
音楽でもなんでも、芸術はどれも、孤独で、
自分を切り裂きながらでないと先に進めない。
血だらけになって苦しんでるアーティストたちを見ていると、
いたたまれなくなるときがあったりします。
音大を出ることは音楽家への一歩じゃない。
わたしは、正直、音大に入ることが目的だった。
入ってからどうしようか、あんまり考えてなかったし。
でも、音楽に関わっていたいと思っていたし、伴奏ピアニストとか教室の先生とかなれればいいかなーと思ってた。
で、今、演奏自体からはかなり離れてるけど、音楽に関わる仕事で、時々ほとんど趣味になったも同然だけどピアノも弾いてる。
でもそれって、法学部を出ても弁護士とか裁判官になるわけじゃないとか、英文科を卒業しても翻訳家になるわけじゃないとか、教育学部を出ても先生にならないとか、そういうことと同じだろうと思うんだ。
著者の片方は作曲家だけど音大を出ていなくて、自分は音大生よりもよっぽど勉強したと書いてあった。きっとその通りなんだと思う。
でも、勉強してない音大生が、音大に通いながら手に入れた音楽の力も山ほどあると思う。
どちらが、ではなく、どちらも。
「音大生よりもよっぽど勉強した」という事実は、事実かもしれないけれど、それこそ、だから何なんだ? と思う。
けっきょくは、何をどう、自分で選びとるか、でしかない。
演奏をしていてどの音を選びとるか。
もともとサウンド・スケープを聴くが好きで、近くの音を消して、遠くの電車の音や、犬の鳴き声や、誰かの足音を聴く。
「音を聴く」というのが、内面へ向かう行為だとしたら、
わたしは自分の内側を見ようとしてばかりだ。
ピアノを弾きながらも音を聴く。今思えば、
(指が自分の思うように動かなくなった今思えば!)
わたしは学生の頃、自分の音なんてちゃんと聴いてなかった気がするけど、
音を聴きながら、どういう音を出したか(出してしまったか)確かめながら
自分の世界を作っていく。
音楽は、すごく創造的な作業なんだと、最近改めて気がついた。
音楽に限らず、芸術家さんにとって、批評って辛いと同時にうれしいもので、でも、それはたぶんきちんとした「批評」をされてるからうれしい。
日本はまだ、きちんとした批評のができる人が少ないんじゃないかと思う。批評する・されることはとても大切なことだと思うけれども、それをうまく回すには、長い時間をかけて文化を作っていかないとならない。日本にはクラシック音楽の文化は、ないに等しいから。でもだからきっと、この著者の二人は、のろのろした日本がはがゆくて、ヨーロッパはイイナーって思っているんだろうな。
だけどもね、著者の二人は、少しヨーロッパに肩入れしすぎだと思うんだ。日本人として世界に出ていかないといけない。最初の方にもあった。西洋音楽をやるということは、日本人であるというだけで、マイナススタートなんだ。
だとしたらもっと、作曲という点だけでなく、日本に肩入れしたらいいのに。
あと、読んでとても気になったのは、「パソコンを使って映画音楽とかをバンバン作曲して儲けてる人(要約)」、に対する意見の仕方だ。
江村氏は、そういうことはできるけど、それは僕のしたい表現じゃないから、しない(要約)って言っているけれども、うーんと思う。
江村氏の曲をわたしは聴いたことがなくて(正直江村氏のお名前も存じ上げなくて)、だからどうと言えることではないけれども、ある映画音楽がすごく多くの人の感動を誘っているということはこれもまた事実だと思う。
それを、パソコンで簡単に作って儲けているみたいな書き方(わたしはそう受け取ってしまったのです)はどうなんだろう。じゃあ、本当にそれで儲けられるのか、一度作ってみたらいいじゃない、と思ったんだ。
そんなわけで、「僕のやりたい表現じゃないから作らない」というのを、逃げの発言に捉えてしまったのでした。
最初の文章は、江村哲二が「スピカが輝くころ横浜にて」書かれたそうだ。
茂木健一郎は最後の文章を、「そろそろ桜が散り始めてしまった東京にて」書いたそうです。
わたしの中では、この文が、この二人を的確に表現していると思うのです。
音楽を「考える」
著者 茂木健一郎 江村哲二
発行 ちくまプリマー新書
定価 760円+tax
mixiからの転記。
わたしの中野くんは、どこにいるんだ……。
と思いながら読んでしまった。早くあらわれてくれたらいいのに。
ホリー・ガーデンに出てくる中野くんは、なんというか、100点だ。
でもわたしは、中野くんみたいな人は好きにならないという困った性格で、あーでも、本当に中野くんだったら、大丈夫だとも思うけど、
ともあれ、早く中野くんがあらわれてくれますように。
どちらの本も、結末というのがはっきりなくて、誰かの人生を切り取っているみたいだった。
本でもなんでも、学術書とか以外は、「誰かの人生を読んでる」のだと思う。本には結末が書かれているけれど、でもその結末の後も主人公の人生は続いていて、ハッピーエンドだったはずなのに、翌日事件が起きてるかもしれない(読者はそのことを知らないだけで)。
読んでいて、本の中の登場人物たちには、この前の人生とこの先の人生があるんだなと思った。「いつか記憶からこぼれおち」ていくような日々を、誰しも経験していて、自分と似たようなところをクローズアップして共感する。
わたしは果歩で、静枝で、菊子で、エミで、柚で、可奈だ。
少しずつ、いろんな登場人物たちと、似てる。
人の一生って、誰しも似たようなものなんじゃないか。
細部はもちろん異なるけど、大筋は同じなんじゃないか。
だから、小説を読んで、疑似体験したり、学んだりできるのだと思う。
いかんともしようがない大きな枠組みの中から、必死で抜け出ようとしながらうまくいかなかったり、ほんの少しだけ枠の外に出ることができたり(こういう人が天才とかといわれるひとなんだと思う)、抜け出ることもしなかったり、抜け出ようとも思わないけど、枠の中を自由に泳ぎまわろうとしたりする。
たくさんの人の似たような人生を多く知っていればいるほど、似た大筋の中でも、自分にとっての最良の道を選べるような気がするから、今年は、本を読もうと思ったんだ。
「つまづく石でもあればわたしはそこで転びたい」(ホリー・ガーデン 59ページ)
ホリー・ガーデン
著者 江國香織
発行 新潮文庫
定価 476円 + tax
いつか記憶からこぼれおちるとしても
著者 江國香織
発行 朝日文庫
定価 476円 + tax
久しぶりに読み返した。
最初に読んだのはたぶん、中学生くらいのとき。そのときのわたしは、この本の内容があまり理解できず、時々挟まれる情景描写はおもしろかったけれども、うまく楽しむことができなかった。
読んだ内容は、ゆっくりと忘れ去られていっていた。
今、先月末くらいから読み始めて、再び読み終わって、印象がぜんぜん違う。
なんとスリリングでエキサイティングな本なんだ。ソフィーが本の登場人物だと気づいたときの衝撃。そしてまた、ヒルデも登場人物だと、それらを読むわたししか気づいていないということ。
ソフィーは、ヒルデは、この本の中に存在していて、動き回っている。
ソフィーは徐々に、自分がコントロールされていると気づく。でも、ヒルデは気づいていない。ヒルデは、ヒルデの父親は、著者にコントロールされてるなんて、気づいていない。そんなヒルデを、ソフィーはうらやましいと思う。
人間として生きられるのはうらやましいって。
著者は、わたしたちだって結局は誰かに書かれた物語に過ぎない「かもしれない」と言っているのだと思う。
でもそうであれば、わたしの物語を書いている著者は、なんと気まぐれだろうと思う。
あまりに普通の人生ばかり送っていて、平凡な毎日で、つまらないわたしの物語を、よく書こうと思ったなと。そんなちっぽけなわたしのために、世界中のいろんなできごとを起こし、わたしの家族、友人、街ですれ違っただけの人たち、みんなの人格形成と人生の背景を考えて、物語を作っているのだから。
すごい。というか、それは衝撃だ。
その書き手が、神様だというのならわたしはまったく何も不思議に思わない。
そうなんだろうと、心がすんなり受け入れてくれる。
昔、自分以外の人はなんだか、何かの登場人物に思えていた。相手が怒ったり感情を表に出したり、ひそかに悩んだりしているという風に、実感として思うことができないでいた。
それはブラックボックス症候群ていうんだよ、と教えてもらったことがあって、調べてみたけどネットでは出てこなかった。
なんというか、すべての人はテレビの中で動き回る俳優やタレントのように、生身でない、どこかフィクション奈存在だったのです。
わたしはそう思うことで、けっきょくいろんな人と距離を作って接していた、もしくは、わたしが少し離れたところから、世界を眺めようとしていたような感じ。
そのせいで、いろんな人を傷つけたし、傷つきもした。
それは大学に入ってからも続いていた。わたしの人格は最近やっとある程度の形に形成されたのだと思う。
だから今、ソフィーの世界を読むことができたんじゃないだろうか。
前は長いと思ってた。すげー長い。哲学意味わかんねーし。でも、今はちゃんと読めた。
大人になったのだと思う。読むということにきちんと慣れたのだとも思う。
著者の住むノルウェー? あたりでは、きっと哲学というものが市民の生活にしみこんでいるのだろうと予想がつく。だからこそ、14歳以上のおとなに向けて書くことができたんじゃないか。
最初に読んだとき、わたしは、理解できなかったけれどそれは、知識を得るための基盤を持っていなかったからなんじゃないか。
またきっと、何かの節目で読むんじゃないかな。また違う、感想を持つかもしれない。
同じ形である瞬間なんて、決してないのだとしたら、変化していくことと変わらないことを両方同時に、受け入れないとならないんじゃないか。
ソフィーの世界
著者 ヨースタイン・ゴルデル
翻訳 池田 香代子
出版 日本放送出版協会
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